ベストドクターズ選出医インタビュー詳細
目指すは必要十分かつ安全な手術
兵庫医科大学 上部消化管外科教授
笹子 三津留 先生
上部消化管、とくに胃がん治療では世界的なオピニオンリーダーである笹子三津留先生。数千例という豊富な手術件数もさることながら、特筆すべきはその手術の質だろう。がんは治ったがQOL低下では、何のための治療か。機能温存――「患者のために」を追求して完成されたのが幽門保存胃切除術だった。その後笹子先生は「自分ががんになったときに執刀してほしい外科医を育てたい」と故郷の大学教授への転身を決めた。「最初から最後まで患者にはうそをつかずに、誠実に」がモットーという笹子先生の現在の心境、今後の抱負などを伺った。
数千例の手術経験。胃がん治療の世界的なオピニオンリーダー
手術の侵襲というと、一般に手術創の大きさのみに目を奪われがちだが、実際にはその手術によって、対象臓器の機能がどれだけ損傷を受けるかが重要だ。たとえば、腹腔鏡下で手術を行う場合、確かに傷口は小さくて済む。手術創の痛みは少なく、傷の回復そのものも格段に早い。しかし、腹腔鏡下の手術でも胃を全摘すれば、全摘によるダメージは全く変わらない。「腹腔鏡手術はアプローチの違いだけで、コンセプトは開腹手術と同じ。だからこそ、適応や利点をきちんと見極めたうえで、術式を選ぶ必要があります」
腹腔鏡下では、視野が拡大され、より微小な血管や自律神経が詳細に観察されるが、食道がんにくらべ、胃がんではそのメリットは限られ、合併症のリスクはむしろ高くなる。
「手術はどれだけ手技が優れていても適応を間違えたら0点。逆に適応が正しくても手技が伴わなければこれまた0点」。
長期的な患者の生活を考えれば、メリットが大きいのは、根治性を損なわずに胃の機能を温存できるPPG(幽門保存胃切除術)であるという。通常の定型手術であれば、(腫瘍が幽門側の場合)幽門側を幽門ごと切除するのだが、PPGは、幽門の機能を温存するものである。幽門の機能を残すためには、周囲の血管や自律神経をいかに傷付けないか、が勝負となる。笹子先生は、従来の方法を改良し、幽門部の動脈と静脈を損傷することなく、転移の可能性のあるリンパ節だけを完全に切除する方法を確立した。この方法は、現在、中国や韓国にも普及しつつあるという。患者のQOLと良質な技術に国境はない。
知・情・意が三位一体となったメスさばき
「無駄のない手術」「スマートな手術」と評される笹子先生の手術。先生自身の言葉を借りれば「必要十分かつ安全な手術」ということになる。「たんに小さい手術を求めるという言い方は誤った表現。縮小手術を求めるというより、不必要な拡大手術は意味がないということです」
笹子先生いわく「人間の体は、発生の過程で癒合をくり返しながら一つの形を呈するもの。手術では、ちょうどその過程を逆にたどり、ていねいに癒合を剥離していく。それが、最も出血や侵襲が少ない方法」だという。そして、手術の先には患者の生活があり、人生がある。
「手術の場では、1ミリの3分の1、数百ミクロンという単位で勝負しなければいけない、勝負せざるを得ない瞬間がある」という。だから、手術場ではスタッフにミクロンの差を指摘する。「刃先を向けた下に何があるかを知り、どれだけの力でメスを入れればよいのか。簡単には伝わらないかもしれないが、根気よく後輩へ伝え続けなければいけない」
6年前、がん治療の最前線を担う東京・築地の国立がんセンター中央病院(現・国立がん研究センター中央病院)を辞め、故郷にある兵庫医科大学へ移ることを決めた笹子先生。自ら手術を行い、その技術をもって患者を治し、同時に若い医師たちを育てることに尽力する。医師になった原点「人のためになりたい」に返るには、がんセンターを去るしかなかった。
当時、笹子先生は副院長の職。担当する手術数は激減した。医療安全の責任者でもあり、訴訟を抱える。心身ともに消耗し、疲弊していく日々が過ぎた。世界有数の胃がんの権威、年間100件以上の手術をこなしてきた外科医がメスを握れない。このままでよいのか……。「手術をしたい」と臨床に飢える自分がいた。その気持ちに素直になることにした。「もっと直接的に患者さんとかかわり、診たかった。それだけです」
京大理学部から東大医学部へという、医師の入り口での転身をほうふつとさせる潔さだった。笹子先生の就任に対する地元の歓迎ぶりは想像に難くない。がんに特化したがんセンターとは違い、大学病院では、心筋梗塞や神経性疾患、糖尿病など、いろいろな病気があり、全身状態は必ずしもよくないといった患者が多い。また、年齢も80歳以上の高齢者が多く、早期がんより進行がんが多いというのも特徴だ。「時代の要請、地域の要求。地域最後のとりでとしての、安全でよい治療を提供したい」と意欲を見せる。
各診療科の個性を生かしつつ、全体として調和のとれた有機的な動きができれば、もっと患者へのメリットが生まれるのではないか。消化器内科、病院病理とは隔週で合同カンファレンスを行っている。より緊密な協力体制ができてきた。笹子先生の就任前と後では、手術件数も増加し、治療成績も上がっている。
「自分で納得し、満足のいく手術ができる間は、手術場に立ち、技術やコツをその都度教えたい」。手術は「見なければ、覚えられない」。手順は口や言葉で説明できても、リズムや流れは見て、共有しなければ伝えられないという。トントンとスムーズに進む場面、じっくりと辛抱が必要な場面、経験が術者の引き出しを豊かにする世界だ。技術の最上級は神業にまで至る。「自分の努力で神業まで高めてほしい、それが職人としての誇り」との期待を込める。
「両親ともにがんで亡くした経験を忘れずにいたい」。患者にうそはつかない。早い時期からこだわった告知の必要性も、自らの経験から実感してのことだ。「患者さんからたくさんのことを教わった」という一流の外科医は、謙虚でありながら、大きな自信をもってその技術と知識を伝承することに燃えていた。
1976年東京大学医学部医学科卒業。東京大学第2外科、都立墨東病院などで研修。84年9月フランス政府給費留学でパリ大学へ留学。87年5月より国立がんセンター中央病院外科勤務。以後、外科医長、第1外来部長、第1領域外来部長を経て、2006年4月より副院長。WHO胃がん研究協力センター所長併任(1997年10月~2007年6月)。07年7月兵庫医科大学特命教授(外科担当)就任、08年4月より現職。上部消化管の手術では世界有数の実績をもつ。医師を志した原点「患者さんを診る」に立ち返り、自らメスを振るいつつ後進の指導とともに出身地兵庫の胃がん治療のレベルアップを目指す。